Copyright 2003 by the Chemical Society of Japan (2003.10.29 掲載)

工業化学会の設立


 わが国における近代化学工業は、明治5年(1872)大阪造幣寮における硫酸製造にはじまります。明治政府は、行政に早急に必要であった旧貨の改鋳や築港、西洋建築の材料を確保するために、これに続いて深川工作所におけるセメント、品川硝子工場における板ガラス、耐火煉瓦などの官営工業を興しました。わが国の燐酸肥料製造は明治18年(1885)多木久米次郎が牛馬骨を原料に事業化し、その後、より豊富なリン鉱石に原料転換された。彼は渋沢栄一らとともに明治20年(1887)東京人造肥料会社を設立しました。
 わが国が、海に囲まれてヨウ素原料となる海草が豊富にと採れることに目をつけたヨード産業も各地で興りました。
 明治10年(1877)官制改革によって工部大学校が成立し、虎ノ門に新館が建設されました。応用化学科がおかれ、化学実験所も2年後に完成しました。教授には英国のダイバース(E. Divers)がいました。第1回卒業生に高峰譲吉、中村貞吉、森省吉らがおります。
 明治30年(1897)当時、わが国は日清戦争に勝利を収め、諸般の産業はようやく活気を帯びてきたとはいえ、なおいずれも低水準小規模で、学理の基礎に立って工業を築くというには程遠い状況でありました。日本化学会の常議員でもあった森省吉は工業化学関係者の学会の必要性を痛感し、各方面に働きかけました。
 工業化学会の設立は翌明治31年(1898)で、旧幕時代にオランダで化学を学び、明治政府にあって農商務大臣、文部大臣などを歴任した榎本武揚が初代会長に、森省吉が副会長に就きました。 右の写真は榎本武揚です。
 発足した工業化学会は、最初の年会当日には319名、翌年末には453名となり、同時期の東京化学会の340名を追い抜いています。工業化学会はその後も膨張を続け。昭和23年(1948)に両者が合併するときには、両者は会員数で5倍以上の差がついていました。これは、化学工業の進展と共に、実業において化学を必要とする人の数が順調に増えてきたことを意味します。
 日本化学会の事務は、創立以来東京帝国大学の中で執られてきたのに対し、工業化学会では早く大学を出て転々としました。大正10年(1921)には、牛込区柳町、大正15年(1926)には本郷区森川町、昭和6年(1931)には麹町区丸の内と変わりました。昭和16年(1941)に神田区駿河台1丁目に敷地面積211坪、延べ床面積70坪の建物を購入しました。これが、今日、日本化学会の本部の置かれている場所です。